昭和40年02月23日 月例祭
真に有り難しと思う心、すぐにみかげのはじめなり。真にありがたしと思う心、すぐにみかげのはじめなり、ね、お蔭のあるも、なきも和賀心。お蔭のあるもなきも、和らぎ、賀ぶ心一つだと。真のお蔭は真に有難いという心からでないと、頂くことは出来ません。ほんとにこの真に有難いという心を、頂かせて頂く為の追求、稽古、なさらなければなりません。信心、又は信心の生活、信心生活というのは、神恩報謝の生活。
神様の御恩を感得して、神様の御恩を分からせてもろうて、その御恩に報い奉る生活。有難い勿体無いと、本当に有難うございますと。本当に信心も出来ませんのに、こうしたおかげを頂きまして勿体無いことでございますと云う。有り難いに勿体なきのとものうた有難さ、そういうおかげを頂かなきゃいけません。皆さん、そこはよう分かっておられるんだけれども、お話を頂けば頂く程、天地の道理も分かるし、お生かしのおかげを頂いて、お生かしのおかげを頂いておるんだと云う事も分かるんだけれども。
有難いことは分かっておるけれども、有難くなれない。そこに精進がいる。努力がいる。ね、ここに一つ分からなければならない事は、確かに有難かったはずの有難さが、いつかどこか、いつの間にか消えておる。ここに、どうでも信じなければいけない事は、めぐりと云うことである。お互いの難儀の基である。その有難い、勿体無いを吸収してしまうところのめぐりである。そのめぐりが、有難いものを吸収してしまう。
ですから、めぐりがおかげも、云うならおかげをめぐりが吸収しておる、食べてしもうておると云うような事にもなる。私共が頂く前に、めぐりが先に頂きよると云う事になるのです。どうでもう一つ、めぐりのお取り払いを頂かせてもろうて、身に徳を受けてまいりませんことには、これは、いかにどんなに才人、名人だと云うたところで、真に有難いと云うものは許されません。頂けません。
ここに、だから稽古が必要であると云うことになります。もう一つ、皆さん、このめぐりと云う事の、云うなら恐ろしさ、又めぐりのお取り払いを頂けてゆくことの有難さと、ここんところが実感できませんと、私は信心に力も入らなければ、味あいもないと思う。月に4回、こうしてお礼のお月次祭がございます。本当に、そのお礼のお月次祭に、どれ程切実な思いでお礼参拝をしておるか、50有難いと思うておる人もあろう。100有難いと思うておる人もあろう。1000も有難いと思うておる人もあろう、その有難いと云うのがお蔭の受け物なんです。
そのお礼申させて頂くところのお月次祭にです、お月次祭は、私は、もうお礼を申し上げて頂くことだけに絞ってよいと。なぜかと云うと、信心がです、信心が日々神恩報謝の生活をさせて頂く事が信心だと。日々、有難い勿体無いと云うて、暮らさせて頂くのが信心生活だと。それを取次がせて、お月次祭にお礼申させて頂くと、有難うございますと云う、そのお礼の内容、お礼の心の状態と云うものが、果たして皆さん1年1年豊かなものに、大きなものに育っていっておるかどうか。
育っていっておるとするなら、めぐりのお取り払いを頂いておるのであり、もし1年前のお月次祭も、今日のお月次祭も同じであるとするならば、信心は巧者になっておっても、めぐりのお取り払いは頂けていないと云う事になる。そうでしょう。昨日、丁度、御祈念が始まりますちょっと前に、ここに秋永先生が羽犬塚まで商用で参りましたから、というて、で引き続いてから。
昨日は田主丸の共励会でございましたから、あちらへおかげを頂かれたんですけれども、そん時に、お礼お届けがあっておりました。昨夜も、朝方3時までお月次祭に引き続いてから、信心の共励をさせて頂いたと云う事でした。そのお月次祭を奉仕させて頂く時にです、先生が心眼に頂かれたのは、『お漬物のタクワンをお三方一台』頂かれたと云うことです。タクワンのお供えをなさっておられた。
有難いことだと、私は、この有難いと云うのでもです、ただ切り花が水を上げておる程度の有難さもある。ただ花を見ただけぐらいで有難さと云う。はあ、美しいと思うような有難さもある。その有難さには根がある。いつも大地から吸い上げておる、その根がある。その有難さにもです、根のある有難さ。私、今日、真に有難いという心は、根のある有難さと、こう思う。葉ばかりながら、尻尾けなしと云う言葉があります。
本当に、見かけは堂々たる信者さんである。成程お蔭も頂いておる。これは、信者だけの事だけではないけれども、信心のない人達の上にでも、何不自由なかろうごとある家庭がたくさんある。家族中円満で健康で、子供達は頭が良うて出来がよい。お商売は発展しており、財産はある。と、例えば、いうような家庭はたくさんありますけれども、実際その中に入ってみると、大変難儀な問題があるのが、実際問題である。
ただお金があるからお金でカバーしておるだけであり、ただ健康であるから健康でカバーしておるだけである。地位があっても、名誉を頂いておってもです、それでもやはり不幸せであると云う人が、まぁ云うなら、ほとんどである。それは、葉ばかりながらであるからである。尻尾けが小さいからである。内容が無いからであると云う事になる。そこで、どうでも信心させて頂くならばです。
その内容、自分の心の上に頂くところの、有難い勿体無いと云う心を、いよいよ、大きく太く育ててゆかなければならんと云う事。どう云うような過程をたどらせて頂いて、お互いの内容が出来るだろうかと、先生が頂かれた。そのタクワンの事から、一つ思うて見たいと思うんです。あれは、ちょっと、じわってなるぐらいに干されますもんね。そしてそれが、桶の中に入れられて、塩がまかれて重石をかけられて、そして、それがタクワンと云う事になるのです。
ですから信心をさせて頂くものが色々分からせて頂くと云う事はです、あるものは神愛だけだと云うような事が分かって来るでしょう。この世に難儀はないのだと、氏子可愛いと云う、神様のお心だけしかないのだと。にもかかわらずこのような暗い思いをしなければならない。このような重圧を感じる思い。難儀をひっかるうておらねばならないと云う事。いつも十字架をかるっておるような状態であるのが実状である。
これは、日々の上にも、一年の上にも、一生の上にも、それが言えると思う。ね、そこで、信心をする者は、肉眼をおいて心眼を開けとおっゃるが、心眼を開かせて頂く、いや、頂かなくてもです、御理解を頂かせて頂くと、成程と合点がいく。その暗い思いをしておる時こそ、今こそ、桶の中に漬け込まれておる時であると、それを信じなければいけません。思うておりますとぐらいなこっちゃいけません。
それをそうと信じなければいけません。今こそ、桶の中だと、それが信じれるところに、暗い思いをすることもです、有難いと云う事になります。重い思いをする時にもです、私が一人で、こう云う難儀をひっかるうて馬鹿らしかと、それが、あの人のせいである、この人のせいである、いや、世の中のせいであると云うような事になってきたんではおかげにはならん。そう云う時に、お互いがえてして、その重たい難儀を早くそこから抜け出たい、抜け出たいと云う心が起こる。
その時代が、どうぞ一日でも早う、おかげを頂かして下さいと云うのである。暗い思いの場合でもそうである。一時でも、明るいところへ早く出たいとこう思う。そこで信心は、云わば、教えはどう、道はどう云うふうに教えて下さるかと云うと、その暗い中に、自分の心の中に灯を頂けと。その、重いならその重い物を、ひっかろうておる時にです、力を頂けと教えて下さる。
どんなに暗い思いをする時でも、心に光りがあれば、不自由しなくてすむのであり、どんなに重たい物をひっかろうておる時でも、それが持てれる力を与えられたら、それはもう重たい物ではないと云う事。よし、重さを感じ、暗さを感じてもです、今こそ桶の中であり、今こそ重石のお蔭を頂いておる時であると思うたら、勿体のうしてこれを軽ろうして下さいなんて事はよう言えん。
それを軽うしたり、明るい所へ早う出たいと云うような、お蔭が50年もし続きましてもです、これでは真に有難いと云うような心は生まれてまいりません。まあ、漬物で云うなら、すいかったり臭かったり程度のタクワンぐらいな物しか出来ないのです。皆さん方も、すいので辛抱すればよい、くさいので辛抱すればよい、この世の中ですいものが好きと云うのがありますね。
私の知ったお婆さんが、ここのうちの漬物は、毎年漬物がくそうなる。どうして【 】それがうちのお婆ちゃん、くさっかげな好かっしゃる。そげな人もやっぱありますからね。好きずきである。まあしかし100人のうち99人迄ぐらい、やっぱり臭かったりすいかったりするよりも、やはりそれこそあの山吹色をした、あの匂いをかいだだけでも、食欲がそそわれるようなです、タクワンのほうがいいでしょうが。そこんところをです、皆さんが信心辛抱しぬくと云う事は、そのことなのです。
しぬかして頂いてみて、初めて立派なタクワンが出来てみて、成程あれは難儀ではないんだなあ、あの暗い思いをする時こそ、あの思いをする時こそ、自分の身に力が頂けておる時であり、信心度胸が出来ておる時であり、云うなら、めぐりのお取り払いを頂いておる時であり、お徳を受けておる時であると云う事が分かってくる。それが2遍3遍、日々の上にでも、一年の上にでもそれを早く、そこが楽になりたい。
楽になりたいと云う信心が50年続いても、それはお蔭を頂いても、それは本当なお蔭じゃないと。2、3日前に、朝の御祈念に、御神前に出らせて頂きましたら「福寿海無量」と頂く。字で福寿ね、福寿草の福寿です。海は海です。福寿の海と云う、無量であると、信心はなくともお蔭はやってあると、世界中の氏子にお蔭はやってあるとこう、けれどもお蔭がもれると、受け物が悪いとおかげがもれるぞとこうおっしゃる。
私は、この御教えをです、本当に、あの、今迄は又そう習って来たんです。又、だからそれだけのものと思うておったんです。ところが、私は、有難い神様からお知らせを頂くから、あのみ教えの、有難さ、深さが分からせて頂く。お生かしのお蔭を頂いております。天地の御恩恵に浴しております。天地の御恩恵に浴しなければ、一日だって、一分だって生きると云うことすら出来んのである。
確かにこれは色が黒かろうが白かろうが、ね、あちらの人であろうが、こちらの人であろうが、神様の天地の親神様の御恩恵を受けなければ生きることは出来ない。そう云う、意味合いに於てのおかげはやってあると、こう云うふうに感じておった。だからそれもある。けれども、その御教えには、受け物が悪いとおかげをもらすとこうおっしゃるところが、私、今度分からせて頂いた。
受け物が悪いとおかげはもれるぞと、そして福寿海無量と云う事頂いてです、おかげは頂くのじゃない、おかげはもうここに有るんだと云うこと。限りない無尽蔵なおかげがです、そこんところを一つ、皆さんの信心なりでいいから、体験していかなければいけない。今一日です。例えば、100円の生活をしておる。細々とした云わば生活であってもその100円の生活が豊かである。神様のお蔭を頂いての生活である。
さあ、いよいよ今日はもう一銭も無いと云う時にでも、さあ必要な時は、又100円頂けた。有難い勿体無いが、その100円を次々と産みなしてゆく、限りなく産みなしてゆく。そう云う生活からです、まず初めなければいけないと思う。そして、この信心が育ちさえすれば、200円の生活が出来るようになり、500円の生活が出来るようになり、5000円のその日暮らしが出来るようになると云うようなおかげ。
しかも限りなく必要な物が、必要に応じて頂けるような、おかげを頂かせてもらう体験が、まず必要。そう云うところで、金が無いから、ちょっと隣へ借りに行こう。これは、さっきから云う、ちょっと、もう、重石を軽うして下さいと云うことと同じ事。早よ暗い所から、明るいところへ出ようと云うのと同じ事。そこんところをです、なるほど、神様がお生かし下さってあるんだなぁと云う、生かさにゃおかんと云う、働きがあっておるんだなと云う体験をです。
頂かせてもろうて、そこに信心が育ってさえいけば、このおかげも育つんだと云う事。そこに楽しみが生まれる。タクワンが一回出来上がりますとです、なるほどこう云う過程を通らせて頂いて、こう云うおかげが受けられるんだと云う体験が生まれてくるから、次の今度は暗い事も、重い事もです、有難い物になってくるのであり、楽しい物になってくるのである。ね、
私共のおかげの受け物がです、そうして確実に、一歩一歩完全なものになってゆく。おかげの受け物が悪いから、おかげを受けもらしておるのである。そのおかげの受け物がです、そう云う信心から、一段一段本当なものにならせて頂く。立派なものにならせて頂くだけ、おかげが頂けてゆくようになる。皆さん、それをですね、あれは云わばお話である。あれは先生の物であるとせずにです。そう云うお蔭の頂けれる体験をです、日々積み重ねて行かなければ、楽しみは生まれてまいりません。ね、
ところが、私共はえてしてそれが分かっておる。そう云うおかげも頂いておる、けれども、そこがいわゆる、生身をもっておるから時々、お粗末を御無礼をする事がある。まあ、こうする事がほんなこっちゃじゃけと、昨日の晩でしたかね、菊栄会の晩だったでしょう、眉を落として歯を染めて、昔は皆そうでした。ですから、娘さんと嫁さんの区別がはっきりしておった。
ところが、最近では娘さんやら嫁さんやら、分からんようになったように、信心もです、信心を頂いてござるやら、信心を頂いてござらんやら分からない。信心のある者やら、ない者やら分からない ような、云うなら、浮溥な信心の状態が、現在ほとんどである。今日も、丁度お昼下がっておりましたら、秋永先生から電話がかかってきた。とにかく分からんです。遠いから、私、耳が遠いもんですから、けれども、【麻生さんが、カバンをのうした】云う事だけは分かった。
お金が6万とか、7万入っておると云う事だけも分かった。入っておったのはそれだけですかと云うて、電話を切らせて頂いた。お取次をさせて頂いた。それから3、4時間しましたら電話がかかってきた。おかげで出てきた。ね、そこで、警察から電話がかかってきたから、お礼に、拾うてもろうた所にお礼にやらせてもろうて驚いた。もうそれこそバラックのような家に住んでおられた。
しかも、そのニコヨンであった。たった六畳一間か、四畳一間に住んでおられた。家財道具と云う物は、見る影もないような生活をしておられる人であったと云う事である。ね、例え、あばら家に住んでおっても、心に錦を着てござると云うような感じがするじゃないですか。今頃、人のカバンなどがですね、現金ども入ったらもう出らんと云うのが普通だよ。ね、本当に、信心がなかってもです、立派な人はありますよ。
信心があっても云わば教えに頂いておっても、こうする事が本当である事が分かっておっても、よう本当な事ができないような人達が沢山あるのです。まあそれは信心させて頂く者は特に、めぐりの深い人達の集まりだからと云やぁそれ迄ですけれどもね。信心させて頂く者が、こんな事であっちゃならんと言う様な事が、やはり有るのです。私昨晩遅う先生方が、秋永先生が帰られたのが、もう一時半か二時だった。
それから、お礼させて頂きよりましたら、お互いが、こうする事が本当だと云う事をさせて頂かねばならんのだけれども、それが出来ず、所謂お気付きを頂くと云うわけです。ね、けども、そのお気付きを頂くと云う事でも、信心を落とすと云う事です。私、今日思いましたですね、もう2、3ケ月前だったでしょうか、どこか、吉井の町【あかの方から】です、お参りして来た方があるんです。
原さんと云う方が息子さんが、その酒乱お酒を飲んで、その暴れると云う、それでもう一家中がもうそれこそ、いつも、血の雨が降らんばかりのような、喧嘩が絶えない。それが今度聞いて、おかげを頂かれて、ここへ2回程参られました。それから、ひと月ぐらいたちましたらです、お婆さんがお礼に出て見えました。おかげであれから、酒を止めております。それでもう貴方、もうおかげで日頃飲みさえせにゃ、本当におとなしい大工さんだそうですよ。
もう本当によか父ちゃんでありますもんですから、良い息子であり、良いお父ちゃんだと云う訳なんてす。ね、それが、ぴったり止まっておったのがです、2、3日前から又始まった。して、そのおかげを落としましたと云うて、今日はそれこそ泣きの涙で参って見えられました。だから私、もう一辺だけ神様にお願いをするから、これからは、ね、本当に信心しなければいけませんよと云うて、まあ、何も申しませんでしたけれども、そう云うて帰しました。
だからその、これなんかは信心が大体ないですから、ね、おかげは落とされた訳ではありますけれどもです。だから、例えばお願いに来るそのおかげがです、お願いに来るだけおかげを頂くと云ったようなものじゃないですね。思うようになると云う事じゃない。信心とはそう云うような事から、本当な信心を今日例えて申します。真に有難いと云う生活がです、神恩報謝の生活が出来るようになるおかげを、その道を教えて下さる訳なんですから、その道を体得しなければいけんのです。ね、
信心をさせて頂いておりますと、その教えを頂いておりますから、こんなこっちゃいけん、こんなこっちゃいけんと思いながらつい、信心の方じゃないない、信心のほうじゃない方をとってしまう。今日は、久留米の佐田さんのお母さんが参って見えて、先日から、もう大変おかげ頂いてから、お礼参拝させて頂こう、今度の日曜日はと、こう思うとった。子供達、孫達連れてからお参りしようと思っとった。その朝、誰かが、その太宰府が、その梅が満開っち。
それで、その2、3年この頃行っていないから自分も行きたいと思うし、孫達も太宰府の方が良かち言うもんだから、ついあっちの方へ行った。そしたら孫達もたいして喜ばず、帰って来たら早速、風邪をひいて40度からの熱を出して、さあ一晩中介抱で大変。そして、その時もしみじみ思いました。もう、これからこげな事はせんぞとこう思わさせて頂いた。そして、とろっと休ませて頂いたらお夢を頂いた。
『奇麗なお風呂に水がいっぱいたたえられておった。まあ、どうしたきれいな水じゃろうかと思うて覗いておったら下からぶつぶつが上がりよる。はあ誰かが炊きよる、風呂を炊きよる。ところがです、その今日の御無礼がです、今日のご無礼がぴしゃっと、その炊きやんでしもうた』ね、お風呂と云やあ、お互い極楽極楽と云うようなことでしょうけれども、その極楽と云うような、お蔭を神様が下されよってもです。
心が神様に向こうておっても、こうすることが本当と分かっておっても、太宰府行きをしたところへです、神様の例えば、そのたえて下さっておるものをストップなさるような事になったら、いつまでたっても極楽にゃならんと云う事になる。それを、佐田さんのお母さんは気付かれた。そして今日早速お礼に、明日はどんな事があってもお礼に出させて頂きますと云うて、神様にお誓いして休ませて、ふわっと休んだらお夢を頂いた。目が覚めた時には熱がひいとった。
もう本当にあらたかでございますと言うてから、今日お礼に出て見えた。ね、ですから、そう云うような例えば、ほんなら、お互い、場合もありますけれども、おかげの落としぐあいがあると云う事です。ね、昨日、高芝さんも、ここの前を行き戻りしながら、ここへ寄らなかった。そしたらすぐ、そこの所へ自動車が田の中へ滑り込んだ訳じゃないでしょうけれども、まあ滑り込んだ訳でしょう。
そしてああた止めんにゃんとを【 】田の真ん中の方迄【 】道の悪いとば行きよるばいのと思うたら、池の【 】後で大笑いしたことでした。けれども高芝さんだから神様がお気付け下さってあるんだと私は思う。椛目の向こうだから良かったけれども、向こうの方だったらどうするか、このまま高い所へ車がひっ繰り返ってから自動車がめちゃめちゃになって怪我人がでます。こっちだからまだ良かった。
その後から、すぐむつ屋の信司さんが通り合わせた。すぐ後から又毎朝一緒に合わせてもらうトラックの運転手さんが通り合わせたから、そのトラックに引き上げて頂いたと云う訳。自動車は、【 】もちろんしていませんでした。その事を、昨日聞かせて頂いておりましたから、その事を、私お礼申させて頂いておったんです。丁度、息子達は今、新婚旅行の旅行中なんです。今日お蔭で帰って参りました。
無事におかげを頂いてから、ほんなこと、もう新婚旅行でぼやっとなってから、大きな自家用車で行っております。あれが、ああた、雲仙辺に行っとります。あれが雲仙か博多辺りでひっ繰り返っておったらどうするか、お父さんが身替わりだったようなおかげを頂いて、有難いと私思うてお礼申し上げておりましたらね、丁度、『お芝居の場面』を頂いてですね、ちょっとつきました。よろよろよろと云うところが、云わば、ね、例えば女郎なら女郎の言葉があります。
たじたじたじとこう云う、それをお互いがですね、おかげを落とす時でも、よろよろよろたじたじたじじゃいかんです。よろ!よろ!よろ!といかなければ、むしろ、そのリズムに合わなければ波乗りに合うていかなければ、ねこんな事じゃ相済みません。高芝さんが、【 】そのおかげを頂いておったと云う事なんです。神様済みません。もう今晩、夫婦で又、改めてお礼に出ますから御無礼致しますと言うとります。
今、言いよることは本当ですけれども、いや神様は喜びなさらんでも、先生が喜ぶのは分かっておるのだけれども寄らなかったと云うようにです。ね、けども、これは見事おかげを落として、そのリズムに合うたおかげの落とし方だったと云う事が言えますけどもね、まあ、けども、そのお蔭の落とし方じゃなくて。今日は真に有難いと云う事を頂く為の御理解だったんですけれども。
それじゃ、先程私が申しました、タクワンの、そう云うことによって内容が出来る。その内容がです、云わば、実のある、真に有難いと云う事になってきて、絶えず、いつでも心の底から神恩報謝の喜びがわいてくる。その喜びが、一日の原動力ともならせて頂くような信心、その有難さが、段々育ってゆく。それが、信心が育ってゆくと云うのであり、その有難いと云う度合いがおかげの受け物であり、その有難さが福寿海無量のおかげを、いながらにして頂けるところのお徳が受けられる。
そうしてゆくうちに、めぐりのお取り払いも頂ける。と云う事を、皆さんがです、ね、そのタクワンのその御理解でもです、皆さんが信じなければいけませんのです。はあ、そんなこつばいのだけじゃいかん。確かにそうだなあと、それを信じるところにです、暗い思いをする時には有難くなるのであり、重い思いをする時に、元気な心が出るわけじゃないでしょうかね。おかげ頂きました。